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【陸前高田】植物のタネと苗木の店を経営する佐藤貞一さん(58)は、2年前の東日本大震災による津波が残した金属の破片や木材を使って新たに自分の店を建て、津波が破壊する前とまったく同じ場所で営業を始めた。
佐藤さんは年配の消費者向けに手すりを取り付け、雨漏りのする屋根を修繕し、ビニールハウスを建てた。さらにフェンスには切り込みを入れて緊急時用の出口を作った。そこには再び地震による津波が襲ってきた時に、どこに避難するかを記した手書きの案内が掲示されている。
店は佐藤さんの創意工夫を示す証しだ。同時に戦後最悪の自然災害に見舞われた日本の停滞の象徴でもある。手作りでガタガタの小屋は、店先というより、何かの代用品のような代物だからだ。
佐藤さんは「国が何をしてくれるか、県が何をしてくれるか、市が何をしてくれるかではなくて、自分自身でがんばってやるだけですよ」と話す。「補助事業を待ったら、いつやるのかわからない」
佐藤さんは高台のより安全な場所に店を移せるようになるのがいつになるかわからないし、自分と妻がいつ仮設住宅から出て本物の家に住めるようになるのかもわからないのだ。佐藤さんには住宅用と店舗用の不動産が必要だが、政府の被災地を対象とした住宅などの高台への移転促進策や土地の交換策などで佐藤さんがどれだけの土地を得られるのか不明なままだ。
「(自分の場合は)個人だからできた(のであって)、全体的には国とか県とかの話になる」と佐藤さんは言う。
2011年3月11日に日本を襲った大地震と津波は1万8000人を超える犠牲者を出し、東北地方の海岸の市町村にがれきの山をもたらした。被災地はまだ復興には程遠い。
仮設住宅で暮らす被災者はまだ30万人を超えている。中には長期の生活には向かないプレハブ式の仮設住宅もある。新しい家が完成するまでにはあと何年もかかるだろう。
そうしている間にも民間の開発業者らは、住宅と市の施設の移転のために不動産を競って手に入れようとしている市の職員らを出し抜こうと価格をつり上げている。
がれきの山と半壊した建物は町の景観を損なっている。事故を起こした福島第1原子力発電所の避難区域は今後数十年にわたって人が住むことはできない。
世界有数の経済大国であるにもかかわらず、復興は遅々として進まない。日本は2015年度までの5年間で25兆円を復興資金に充てることを決めた。しかし建設事業の遅れから、2011年度は1兆円余りの復興予算が使われる見込みがないとして国庫に戻された。
近年の自然災害に見舞われた他の弱小国に比べて日本は経済的に恵まれているが、ハイチやパキスタンといった国が抱えているのと同じ多くの問題によって復興は頓挫している。つまり、支出の無駄を防ぐために設けられた融通の利かない官僚主義とリーダーシップの不在だと地元の職員は指摘する。
陸前高田は津波によって最も大きな被害を受けた市町村の1つだ。住民の約10%が津波で命を落とし、2000棟を超える住宅が壊滅した。
市役所や病院、消防署、警察署といった市の公共施設のほとんどを失った。残されたままの建物は津波で失ったものを思い出させると同時に、復興の遅れも象徴している。
復興資金が問題なのではない。市の震災前の年間予算は110億円だった。それが2012年度には6倍に増えた。来年度は10倍の1100億円になる。
戸羽太市長は、問題は復興資金にひも付けされている政府の規則にあるという。このため市の最初の大きな建設プロジェクトの進行はいま頓挫している。低所得者層と高齢者のための公共住宅と警察署および消防署の建設だ。建設業者が着工のために建設予定地の木を伐採しようとしたところ、林業行政上の手続きのために農林水産省から半年待つように言われたのだ。
一方、復興庁は消防署を以前と同じ場所に同じ設計で建設する場合のみ、公共資金の使用を認めるという。こういった官僚主義の煩雑さは建設プロジェクトの着工を1年以上も遅らせている。
戸羽市長は「(日本は)諸外国に比べてあまりにもルールを重んじる。だけど緊急事態というのはあるわけだ。今回はまさに緊急事態だ」と話す。
復興の遅延は、故郷の復活が自身の生活の再建と密接に関連している佐藤さんのような人に痛手となっている。
佐藤さんは陸前高田で生まれ育った。しかし市の多くの若者同様、高校を卒業すると故郷を離れ食品・飲料メーカーに25年間勤めた。2000年に年老いた両親の面倒をみるためと、店を持つという自身の夢をかなえるために故郷に戻った。それがタネと苗木の店だった。
佐藤さんは、気仙川土手近くの小さな土地に、くい垣に囲まれ、店舗も兼ねる居心地のいい黄色い家を建てていた。震災保健への加入も検討したが、高かった、と佐藤さんは話す。市職員に確認したところ、佐藤さんの土地は海岸から約2.5キロと十分離れており、恐らく安全だと言われた。
佐藤さん夫妻は、はるか内陸に住む年老いた佐藤さんの母親を訪ねていたため、津波は免れた。数日後に自宅に戻ると、震災で全てが失われ、既に受け取っていた果物と野菜の種の代金だけが借金として残された。
佐藤さんは「結局は自分のせいだが、保険に入る、入らないでものすごく差が出ている」と言い、「地震保険に入っていて、津波被害で何千万円も入った人は、もう土地を買ったり、家を買ったりしている」と話した。
妻の恵子さんは、トラウマ(心的外傷)を負っていた。市を離れ、内陸に移転しようと夫に懇願した。しかし、佐藤さんは生計を立てられないと言って拒否した。佐藤さんは「女房を無理やり引っ張ってきた。最初はショックでぎくしゃくしていた」と話した。
恵子さんは、福島第1原発から約10キロに位置する南相馬市にあった幼少期の家を失った。両親はメルトダウン(炉心溶融)の前に避難し、現在は仮設住宅で暮らしている。除染は数十年かかる見通しのため、恵子さんの両親は2度と自宅に戻れない可能性がある。
佐藤さんやその他2840人の市内に自宅を所有していた住民は、盆地にある彼らの土地と高台の土地とを交換可能だと言われた。市は近隣の山々にそのための土地を購入している。
佐藤さんの新しい土地は恐らく現在の土地よりも小さく、佐藤さんが望む仮設市役所に近いにぎやかな場所に移れる保証もない。土地の交換がいつ行われるかもまだ分からない。
その答えの一部は陸前高田市が、いかにして高台に十分な新しい土地を確保し、建設準備を進められるかにかかっている。地元当局は、約4000世帯が暮らすのに十分な土地を確保する計画で、その中には土地交換の条件に当てはまらず、地代を支払う必要のある世帯も含まれる。
復興資金関連の規則をめぐって、県や中央政府ともめている陸前高田市にとっては、とりわけ難しい問題だ。市は再開発計画を完成させるまで、佐藤さんに答えを返すことはできないが、復興資金の使途や建設する建築物の種類について規制当局から明確な指示が出されるのを依然待っている状態だ。
復興資金プールは、特定の設備の建設にしか利用が許されていない。例えば、ジムや図書館、消防署は認可されている建設プロジェクトのチェックリストには含まれていないため、助成金を得ることはできない。
また、法律や規制は壊滅的被害を受けた陸前高田市には実質ほぼ当てはめることができず、その調整にも時間を費やしている。
市がある土地にスーパーマーケットを建てようとしたところ、そこは農地に指定されており、長々とした手順をへて許可を得る必要があることが分かった。
また、穴を掘るには、法律上は文化庁に通知しなければならないことも判明した。日本全国には遺物が埋まっている可能性のある場所が50万カ所近く存在しており、当該の土地がそのような場所であることが分かっている場合、試験掘削が要求される。
12月に与党に返り咲いた自民党は、民主党が与党時代に犯した失政を正していくと主張している。
12月に復興相に就任した根本匠衆議院議員は「われわれは復興を加速する」と述べ、「一連の段階、段階でどういう問題があるか、どう解決していくかということをやっていき、スピードアップさせる」と力説した。
官僚が耳を傾けてきている兆しはある。復興資金の対象になる施設の範囲は4月に拡大する予定だ。一部の復興資金のおかげで、再建場所を選ぶ際の柔軟性が高まっている。農地の再区分は、新しい迅速な制度に向かっている。
陸前高田の適地を争奪する競争は激化しており、それは復興と総合的な計画を複雑にしている。
市の職員が国の規則の迷路と格闘する一方、民間デベロッパーはわれ先に、と最高の区画をさらっていく。戸羽市長によると、市が提示できる金額の2倍ないし3倍を払う業者もあるという。
陸前高田の周囲の山地では、12年に不動産価格が前年比15%上昇した。20年にわたりデフレに見舞われている日本で最高の上昇率だ。
日本では、政府が公共目的のために土地収用権を使うことはほとんどない。米国では、政府機関が必要な土地を素早く収用し、金額についての議論を後回しにすることができる。しかし、陸前高田の職員は、それぞれの地権者との交渉でがんじがらめになり(1つの敷地に数十人いる場合もある)、さらに取引が遅れてい る。
陸前高田市役所の山田壮史都市計画課長は「1人売らないという人には、頭を下げてなんとかお願いをしていく(ということをしている)」と述べた。
11月には新たな中学校の計画の縮小を余儀なくされた。民間デベロッパーが市の提示を優に上回る金額を提示し、計画で見込んでいた区画の一部を持っていったためだ。
計画縮小のために遅れたが、市はその区画なしで計画を進めている。
建築資材や建設作業員の不足で問題が増幅している。これは、陸前高田が民間デベロッパーのほか、他の被災都市とモノやサービスをめぐって競合していることを意味する。
白髪混じりの髪と少年のような笑顔を持つ佐藤さんは、不平を言っても始まらないと考えている。それは震災後、種を売り歩いたときに既に実践した。11年8月までには、種子の業界団体からの義援金を使い、店を再開するため車庫ほどの大きさの古い倉庫を買った。
当時は、小規模事業のオーナーに対する市の支援が足りないと感じていた。その後、復興という非常に困難な仕事を考えると、市が悪いわけではないと悟ったという。
佐藤さんは「自分で道を探してやるだけだ。東北の人はそういう人が多い」と言い、「文句いうこともしない、この辺の人は。おれも言わない」と述べた。
津波の後の1年目に震災前の事業規模の約半分、2年目には約80%を取り戻した。借金を返し、新しいトラックを買った。今は、敷地を確保したら600万円ほどのつつましい家を買おうと計画している。
フラストレーションと悲しみのはけ口も発見した。英語での作文を始めたのだ。学生時代は英語が苦手で、英会話の授業にもたまにしか出席しなかった。
それが今では、英作文に感情の浄化作用を感じるという。棺(ひつぎ)や遺体といった言葉の感情的な負担が大きすぎるため、日本語で書くことはあまりにつらい。それが英語では、文字がつながっているだけだという。東京から来たボランティアの英語の先生が、添削してくれることになった。
佐藤さんは、"The lost precious days will never come back again. Many hardships follow in the wake of the disaster. However, the seeds of resilient spirits were already sprouting by the rain of our tears"(失われた貴重な日々は戻らない。震災に続いて多くの苦難があった。だが、忍耐強い魂の種は、わたしたちの涙の雨で既に芽を出しつつあった) と書いている。
出版した"The Seed of Hope in the Heart"(心に希望の種を)は1000部以上売れ、第2版も出た。
店の外には、英語で"I came back!!"(復活)、日本語で店名が書かれた看板がある。別の看板には、日本語で「復興の種」、英語で、"Samurai spirit never give up."(サムライの魂は決してあきらめない)と書いてある。