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衰退の一途をたどっていた大英帝国をオーストラリアが去ってから何十年もたったが、オーストラリア人は今、ロンドン五輪で自らの水泳帝国が崩壊する様を何もできないまま見つめている。
オーストラリアの人口は世界で52番目だが、長い間、競泳では多くのメダルを獲得してきた。しかし、ロンドンのオリンピック・パークにあるアクアティック・センターで競泳が最終日の4日を迎え、水泳帝国オーストラリアの落日は決定的となっている。
オーストラリアにとって、ロンドン五輪最大の見ものはイアン・ソープだ。ただし今回は、ソープは選手ではなく、英国放送協会(BBC)で舌鋒鋭いコメンテーターを務めている。テファニー・ライス、ニック・ダーシー、ジェームズ・マグナッセンなど注目の的になるはずだった著名選手たちのほとんどが敗北した。
4日に入り、オーストラリアが競泳で獲得した金メダルはたった1個。金、銀、銅を合わせても8個で、2008年の北京五輪よりも金メダル数は5個、メダル全種で12個少ない。競泳の金メダル数では、南アフリカ、フランス、中国、米国に次いで5位となった。水泳の不振が響き、オーストラリアが獲得した全体の金メダル数は隣国ニュージーランドより2個少ない。
「全盛期は終わった」とスポーツを専門とするシドニー大学上級講師のスティーブ・ジョーガキス氏は話している。
五輪で永遠にトップを走り続けられる国はない。強豪の米国競泳陣さえ1988年には比較的少ない18個のメダル獲得にとどまった。ロシアのアイス・ホッケーチームにソ連時代の面影はない。ソ連自体が今はないのだが。
しかし、到達できるはずがなかったとも言える高みであったとしても、敗者にとって凋落(ちょうらく)は辛いものだ。ここで独特の被害妄想が頭をもたげてくる。他の国がわれわれの極意を盗んだのだろうか。われわれはどうやって再び強さを手に入れるのか。
五輪にオーストラリア代表の競泳選手として出場経験のあるトラビス・ネダーペルト氏は3日、「競泳大国としての地位を取り戻すためにすべきことを解明する重い課題がわれわれにある」と述べた。
かつては鼻高々だった多くの国家プログラムがこれまで凋落の憂き目にあっている。ブルガリアのウエイトリフティング、ハンガリーのフェンシングがそうだ。そして、東ドイツの競泳などそこまで誇らしいとは言えない国家プログラムは言うまでもない。(訳注:1990年の東西ドイツ統一後、旧東ドイツの競泳関係者らが相次いでドーピング行為を告白している)
しかし、五輪関係者の間でインドのフィールド・ホッケー・シンドロームとして知られるもの以上に恐れられているものはない。インドのホッケーチームは1928年から1980年までの間、連続で五輪のメダルを獲得。このうち8つは金メダルだ。その後、インカ帝国のごとく、インドのフィールド・ホッケーチームは表彰台から姿を消した。北京五輪には出場さえできなかった。
突然、オーストラリアは水泳帝国の凋落を引き起こした弱点を探そうと、国民性に目を向けている。オーストラリアが世界チャンピオンで、ロンドン五輪でも金メダルが期待されていた男子4×100メートル自由形のレースの中に弱点を見つけたと言う人もいる。
7月29日のレースでオーストラリアはメダルを獲得することはできなかった。しかし、レースの最中に起こった出来事に比べれば、メダルなしの結果はたいしたことではない。第1泳者だった100メートル自由形のスター選手、マグナッセンが泳ぎ終わったあとに腰を下ろしていたのだ。「このことが多くを物語っている」と五輪出場経験があるオーストラリアの元競泳選手ブレット・ホーク氏は言う。「マグナッセンはチームのメンバーがまだ泳いでいる間に座っていたんだ」
その3日後、男子100メートル自由形の世界覇者マグナッセンは米国のエイドリアン・ネイサンに敗れた。